税込価格 : ¥1,470 (本体 : ¥1,400)
出版 : 偕成社
サイズ : A5判 / 253p
ISBN : 4-03-720290-5
発行年月 : 1979.12
「ふたりのイーダ」に続くシリーズの3巻目。
そういや2巻目はどこに行った?(笑)
解説の言葉が重い。
それらは<戦争児童文学>と呼ばれるが、その大半は、子どもをはじめ名もない民衆の受難の物語で、加害者意識が希薄で被害者意識が強いことで共通している。
そうだ。そのとおりだ。民衆もまた、進んで権力に加担し、何も言わず協力することで誰かを傷つけている。
この手は汚れていない、と思うこと自体が罪である。
汚れていることを自覚し、血まみれであっても自分が生き抜いていく意味を問わねばならないということだろう。
この記事に対するコメント[2件]
1. 水無月 — May 1, 2007 @17:31:22
>汚れていることを自覚し、血まみれであっても自分が生き抜いていく意味を問わねばならない
実に同感ですね。
自らを常に被害者側に置きたがる人は現代社会でも多く
Yumikoitさんがこのように真っ当な感覚を保持していることに
嬉しい驚きを覚えると共に、深く共感致しました。
現代の日本社会においても、生きていくためには
どうしようもなく誰かを傷つけたり、結果として犠牲を強いて
しまっていることもあるはずです。
そうしてまう痛みや自覚をきちんと引き受けることがなければ
そうせざるを得ない状況を改善したり、より良い方法を模索したり
といった原動力も生ずる余地はありません。
主体的に生きていくとは、そうした、汚れた自己を引き受ける覚悟
と表裏一体の意識のありようなのだと思います。
Yumikoit May 4, 2007 @21:12:57
子ども達にも、時々そんな話をすることがあります。
つまり、目の前で生き物を殺していないからと言って、自分は生き物の命を奪っていないとは言えないということ。
お店で買った魚や肉を食べるということ。
それは、自分が殺していないから、自分の手がきれいなのではないということです。
それでも、私たちは生き物の命を食して、今日を生きていきます。
戦争と食べることでは、根本的に違うという人もいますが、それでも今日ある生を明日につなぐという意味では、…自分と家族の命を明日につなげていくための行為として…必然的に他者の命を奪うこともあるということ。
その時に、良心の呵責を感じつつ、前を向いて生きていく必要を感じることもあるでしょう。
先日読んだ「あのころはフリードリヒがいた」「ぼくたちもそこにいた」「若い兵士のとき」の3部作。
http://www.itofamily.com/yumikoit/diary/index.php?UID=1173356217
これも児童書ですが、子どもの頃目の前でナチスに虐げられていた友達を目の当たりにして心を痛めていたはずの主人公が、成長して自分もナチスの集会に参加し、そして従軍して誰かを殺していく様子を淡々と描いていきます。著者の体験なのでしょう。
自分のしてきたこと。そしてこれからもしていくであろうこと。
後悔はできない。それでも、心を痛めずにはおかれない。また同じ局面にあったら、たぶんそうせざるを得ないことも出てくるでしょう。現実を直視して、自分の手が汚れることを辞さないこと。痛みも含めて引き受けること。そして生きていくこと。
そんなことを考えます。
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